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デザイナー検定試験問題集2

第1科目 服装史

次の問題について正しいものに○印、誤りには×印をつけなさい

 

 

問題1

ゲーテの色彩論は有名で「光学への寄与」(1791)、「色彩学のために」(1810)の著作がある。このゲーテの色彩論の20世紀における継承者はオスワルト表色系で有名なウィルヘルム・オスワルトである

 

問題2

タキシードは19世紀初め北アイルランド、オレンジカントリーの「タキシード・パーク・クラブ」のユニフォームとして着用されたのが起源で、アメリカではカクテルジャケット、フランスではサドルジャケットと呼ばれる

 

問題3

19世紀中ごろ、それまでのファッションをリードしていたのは宮廷貴婦人であったが、自分のデザインを売る近代オートクチュールを創始したのは、イギリス人シャルル・ウオルトである。このオートクチュールのメッカ、フォーブルサントレノ通りはロンドンにある。

 

問題4 

ジーンズの起源は1900年パリ出身のジャック・ドゥーセがアメリカ・テキサスのカウボーイのために、テント用のキャンバス地で丈夫な作業ズボンを作ったことにはじまる。

 

問題5 

オリンピックの入場式に象徴される”ブレザー”の起源は100年前頃、アメリカのミシシッピー川の蒸気船の船員が真紅の上着を着て人気を博したことにはじまる。

 

問題6 

フランス語のプレタポルテ(Pret a Porter)は英語のレディ・トゥ・ウェア(Ready to Wear)をフランス語に直訳したもので、戸口(Porte)でも、すぐ(Pret)買えるの意で、フランス語にすでにあった既製服、コンフェクション(Confection)と区別するために造られた新しい用語で、一説には1947年、クリスチャン・ディオールがアメリカの業者に自分のデザイン、名称で製造させたのがはじまりともいわれる。

 

問題7

外国服装を政令によって正式にわが国の征服に取り入れたのは、飛鳥奈良時代の大化改新(大宝律令)による三公服(礼服・朝服・制服)と、明治5年11月12日に公布された洋服採用の太政官布告第339号である。

 

問題8

キングオブメンズコートと呼ばれ、男子コートの代表的なものとされる「トレンチコート」は第二次世界大戦中に塹壕(トレンチ)戦用にドイツ陸軍が開発した防水加工のコートである。

 

問題9 

1967年アメリカのでデヒター博士が提唱したピーコック・レボリューション(孔雀革命)はダーク調一色のメンズファッションに一大色彩革命を呼び起こし、カジュアル化、カラフル化に強い影響を与えた。

 

問題10

1970年代のアメリカファッション業界に一大センセーションを巻き起こし、世界に素材によるファッション変革の原動力となったウルトラスエードは1974年度、コティ賞、総合栄誉賞受賞のグランプリデザイナー、ロイ・ホルストンによって紹介された東レ・エクセーヌである。

 

 

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デザイナー検定試験問題集1

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

 

今年の初旬、洋服技能士会の会合に出た際知ったのですが、どうやら来年ぐらいから洋服の技能検定が復活するかも?との話を聞きました

 

以前は仕立て屋にも国家検定があり、一級技能士、二級技能士とありましたが、後継者不足の為か廃止になってしまいました

どうやら今回復活する技能検定は、より専門的に裁断の部と縫製の部に分かれるという噂があります

 

 

そんな話を思い出したこともあり、先日、調べ物で昔の雑誌を読み返していたところ、今は廃止されてしまった国際注文服業者連盟(FIMT)認定の第6回デザイナー検定試験を見つけたので、今回は一生懸命タイピングしたいと思います

 

筆記試験は服装史はじめ8科目、採点方法は1000点満点で650点以上で合格です

 

仕立て屋業界の検定試験なので専門的で難しいですが、ファッションに覚えのある”あなた”何点取れますか??

 

是非挑戦してみてください

※長いので時間のある時に挑戦することをおススメします

 

 

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ユーベル・ド・ジバンシィ

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

先日、お客様のお連れの方から最近の口紅は唇のpHによって色味が変わるという話を聞いてパーソナルカラー診断が必要なくなる日も近いのではないかと感じました

その口紅がジバンシィのものだったそうなので、せっかくなので今回はジバンシィについて書いてみようと思います

ユーベル・ド・ジバンシィは1927年にボーヴェに生まれました

ジバンシィが美術学校で学んでいた17歳のとき、彼がそれまでずっと憧れ続けていたバレンシヤガにデザインスケッチを見せようとパリに出てきました

しかし、機会を与えられず、たまたま彼の才能を認めたジャック・ファットの見せにデザイナーとして就職しました

その後、ピゲ、ルロンといった高級婦人衣装のデザイナーを経て、有名なスキャパレリのメゾンの主任デザイナーに就きました

ジバンシィは、このメゾンで働いていた期間が一番長く、丸4年間働きました

後年、このスキャパレリの店の経験を回想して、彼は次のように語っています

私の若い頃からの夢は、バレンシヤガ氏のそばで仕事をすることだったのですが、友人の紹介でマダム・スキャパレリのところで働くことになったのです 

だが、ここで本当のエレガンスを見つけたのです 

そこはまた、真にエレガントな女性に出会ったところでもありました 

マダム・ギネス、ウィンザー公夫人などをはじめ、当時もっともエレガントだったフランスやイタリアの貴婦人たちに会うことができたのです 

これは私にとってすばらしい思い出です 

そして、4年後には私自身のメゾンをもつことになったのです 

残念ながらマダム・スキャパレリは私の独立に不満だったので、私たちは冷たく別れざるをえませんでした 

それでも、私は彼女を敬愛していましたし、彼女のそばで働いたことを大きな喜びと思っていました

1952年、25歳のとき彼がパリのデザイン界で一番尊敬していたバレンシヤガの近くに自身の店を開きました

当時の評価は、バレンシヤガの落ち着いたエレガンスに影響を受けた、同じような作風のコレクションを創作するデザイナーというのがごく一般的な評価でした

このバレンシヤガの死後、同類のきわめて洗練されたこのクチュールがますます完熟していき、パリのファッション業界がプレタポルテ(高級既製服)路線を強化するのと逆行するような形で、そのクチュール性が世界的に評価され、受け入れられるようになっていきました

ついには、1978年にはデ・ドール(金の指貫)賞が贈られました

この賞はパリの伝統的でもっともエレガントなコレクションに贈られるもので、それはそのままジバンシィが80年代のクチュール界に文字通り君臨することを意味していました

※ピエールカルダンはその翌年の1979年に受賞しています

ジバンシィは、洋服をデザインする出発点について、こう語っています

作品の出発点は布地

作品をつくるときには、まず最初の出発点で、布地のことを考えます 

布の重さ、柄、布の生かし方、動き方をみます 

布地は生命を持っているので、布地のいわゆる落ち方がもっとも良い形にいくように務めます 

好きな布というのは特にありません 

しかし、他の布地よりも扱い易い布地というのはあります 

それとは逆に、扱いにくい布を使って、今まで表現されなかった美しいなにかを創ろうとすることが私は好きなのです 

苦労したあとに表現された美しさ、私にとってその喜びはなにものにもかえがたいものです

と、デザインの秘密を打ち明けるジバンシィは一方で

10年前まで、クチュリエがすべきでないことまでやっている人もいます 

その点について、自分が監督でき認めることができ、試すことができ、自分の名前がついても誇りにできるようなものを作れるのなら、ライセンスを引き受けてもいい 

と批判しています

活躍については、オードリー主演映画「麗しのサブリナ」の一部の衣装を担当したり、 メンズウェアライン「GENTLEMAN GIVENCHY」を発表したりなど…詳しい内容はウィキペディアや他のブログを参考にしてください

静岡県のテーラー新屋は、ジバンシィの香水の香りが好きです


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