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エマニュエル・ウンガロ

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

 

4月も残すところあとわずかです

休日になると、この時期浜松では浜松祭りの準備を所々で見受けられ、気持ちがウキウキしてきます

 

 

さて、前回はクレージュについて書きましたが、そのときにも少し触れたウンガロについて今回は書いてみたいと思います

パリで同時代に活躍したクレージュとウンガロ、それぞれのセンスの違いなど比べてみるとより面白いかもしれません

 

 

エマニュエル・ウンガロは1933年イタリアで生まれました

 

ウンガロと同年生まれのイタリア人デザイナーとしてまず思い出すのはジョルジオ・アルマーニです

 

アルマーニが1970年代中期のデビューと比べると、ウンガロはそれよりも10年早い1965年に第一回のコレクションを発表し、パリのファッション界に登場するという華やかなスタートで飾られています

 

また、アルマーニがパリのニノ・セルッティのデザインハウスでスタイリストをしていたという地味な経歴に比べ、ウンガロはパリの名門オートクチュールのバレンシヤガで1958年から1963年までの間、スタイリストを務めていました

 

ウンガロとアルマーニのデビューの差は、いわば華やかなパリの表舞台を経由したという経験の質の違いが、この10年の差となって出てきたのかもしれません

 

いずれにせよ、エマニュエル・ウンガロの登場は華々しかったという事実に違いはありません

 

 

ウンガロの登場した60年代は、女性のミニスカートや男性のモッズルックに象徴される大胆な前衛の時代でした

デザイナーとはその時代を反映しており、特に新たに登場してくる若いデザイナーにはそういった傾向が強いのも当然です

 

そのような背景からなのか、ウンガロのデザインは、それまでのパリの高級衣装店のデザイナーが世界の上流階級を前提として新しいデザインを起こしていたのに対して、その対象年齢をぐっと引き下げて、自分と同年齢層の若い世代のためのファッションを創造したのでした

 

若い人たちを対象としたデザインは、現在ではごく常識的な発想になっていますが、60年代のパリのオートクチュールの世界では画期的な事件でした

 

こうした彼の独自な革命的なやり方を「若いテロリスト」とパリのデザイン界が評したのもごく自然のことでした

 

 

60年代というのは、プレタポルテが本格的に開発された年代でしたが、ウンガロの特色である、若い世代にデザインの対象を絞り込んでの特異な色柄とスタイルが、ウンガロをたちまちライセンスによる人気デザイナーズブランドへと押し上げました

 

70年代の初期には、もうアメリカの市場をはじめとして世界のどの都市にもみられる有名ブランドへと成長していきました

 

 

ところが1977年に事件がおこりました

それは支配人のアンリ・ベルゴーをはじめとする古くからの12人のスタッフが、当時パリに進出したばかりの日本の森英恵のハウスにごっそりと引き抜かれてしまったのでした

 

そして、この森英恵の店はパリのオートクチュールが密集するモンテーニュ通りの、ウンガロの店のちょうど向かい側に開店しました

スタッフばかりでなく、顧客も引き抜かれるのは当然のことでした

 

再起は不可能とさえ噂されましたが、バルマンにいたスタッフの何人かを補充し、そのプレタポルテの生産本拠を彼の故郷であるイタリアに移すなのど合理化によって、ようやく80年代の初めに全盛期に近い業績を上げるまでに復活しました

 

1990年、ウンガロが50歳のとき、ラウラ・ファファーニと結婚し、1996年にはフェラガモにブランドを売却しました

このフェラガモへの売却は友好的な買収だったと言われているそうです

 

そして、現在でも、ウンガロのデザインチームの若い人たちが元気に活躍しています

 

 

静岡県のテーラー新屋は、ウンガロの特異な異国情緒を盛り込んだデザインも好きです

 

 

 


アンドレ・クレージュ

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

 

先日、お客様よりクレージュ・オムの生地でのご注文をいただきました

オリーブ色のポーラーの生地は、風通しがよくこれからの季節によく合うなと思います

 

 

そこで、今回はクレージュについて書いてみたいと思います

 

アンドレ・クレージュは1923年、スペイン国境に近いバクス地方に生まれました

 

1933年イタリア生まれのエマニュエル・ウンガロとは年齢は10歳ちがい、生まれたところもかなり隔たっていますが、この2人の有名デザイナーには非常に近似した特長があります

 

その一つが名門高級衣装店のバレンシヤガ店で仕事をしていたことです

もう一つがパリでデザインの技術を習得し、パリで有名になり、パリで金を儲けたにもかかわらず、いつまでもパリになじめず、パリという大都会から抜け出したがっていることです

※ウンガロのことは次のブログで書きたいと思います

 

さて、1961年にクレージュは独立して自身の店を開きました

この独立のための第一回コレクションが、パリの観客だけでなく世界のファッション界に衝撃を与えました

 

というのも、モデルの第一条件であるスレンダーな女性という常識に反抗して、彼が新しいデザインの作品を着せてステージに登場させたモデルは、すべてふくよかで健康そのものの体形の女性たちばかりだったからです

 

そしてまた、そのデザインも機能的な要素を徹底的に重視した構造が完璧に造詣されたものだったからでした

それは、それまでのパリのクチュール界の伝統であったエレガンス路線を完全に否定する、パリにおいてはまったく画期的な発想になるファッションの考え方でした

 

クレージュはその後連続して、白だけで構成されたコレクションや、常識やぶりの工業用ジッパーの特性を前面に押し出したコレクションなど、機能的未来派路線での革命的なエレガンスの発見と創造を続けさまに発表しました

 

 

しかし、クレージュの名前を世界に印象づけたのは、なんと言っても、ミニスカートのデザインでした

 

クレージュが31歳で独立してから四年たった1965年のことです

ロンドンのマリー・クワントがストリートファッションとして発表したミニスカートをもっとシックに造形した「ミニ・ルック」というものです

 

この画期的なデザインはたちまち世界のファッションジャーナリズムの注目するところになり、クレージュ旋風と呼ばれるほどに、彼のミニスカートのデザインに話題は集中しました

 

しかしながら、そんな画期的な成功を収めても、彼はすぐにクチュールの仕事をロシアル香水会社に売却して引退し、ごくわずかの特定の顧客だけの服をつくるという仕事に戻ってしまいました

 

そして1967年までの二年間新しいデザインを発表することはありませんでした

 

結果として彼は非常に賢明な作戦を採ったということになりました

それは、ミニスカートの嵐が吹き荒れ、どんな新鮮なアイディアを提示してもだれもが刺激どころか、印象にとどめることもできなかったからです

 

 

しかし、1967年のカムバック第一回のコレクションではシースルーのドレス、宇宙飛行士のようなスペース・ルック、薄手の生地と巧みなカットを組み合わせたヌード・ルックなど、すべてが独創そのものの画期的デザインはかりで、じつに新鮮な衝撃をまた新たに世界のファッション界に投げかけたのでした

 

この新しいファッションは世界の流行の話題を一手に集めましたが、これだけのファッション界の流行児となり、その名前が世界のマスコミに大々的に取り上げられているにもかかわらず、アンドレ・クレージュの提携によるデザイナーズブランドは、同程度の知名度を持つデザイナーに比べるとごく僅かしかみられません

 

というのも、クレージュいわく

 

「なんでもかんでもというライセンスのやり方は反対、それは物を高く売るために消費者を騙すことだから。ライセンスはクチュール関連商品に限るべき、と考えている。家具やチョコレートはわたしの専門外。どうしてなにもわからない物に責任が持てるのだろうか」

 

という理由があるからです

 

以降70年代からは、以前のような挑戦的なタッチがますます減少してきて、その分より柔らかくエレガンスが増加してきました

 

80年代にはクチュール・メゾンの呼称を失いますが、90年代になるとクレージュのブランドとしての建て直しが始まり現在に至っています

 

 

静岡県のテーラー新屋は、クレージュの生地を、フランスっぽく、大きなカーブを使い柔らかな印象のスーツになるよう仕立てれたらよいなと思います

 

 

 


喪章をつける時の正式なルールは…?

静岡県のテーラー新屋のダイスケです

 

先日、叔母の一周忌があり、親族で集まった際に礼装について尋ねられました

その際、案外あやふやだと感じたのが「喪章」を付ける際のマナーでした

 

そこで、今回は弔辞の際に用いる「喪章」について書いてみたいと思います

 

 

喪章の由来をさかのぼっていくと、騎士道華やかりしころの中世イギリスにつきあたります

 

ときの王および女王お気に入りの騎士だけが、袖にスカーフを巻くことが許され、とくに黒のスカーフは陛下亡き後も命を捧げるという忠誠心の深さを示したと言われています

 

礼装用のコートにチェスターフィールドというものがありますが、この上衿につけられる黒のベルベットも、もとを質せば喪章の一つだと言われています

 

フランス革命時、次々とギロチン台にかけられるフランスの貴族たちを悼んで、イギリス紳士が服喪の意でつけたのがその最初です

 

 

さて、歴史はこれぐらいにしておいて

 

喪章は英語でMourning Band(モウニング・バンド)と言いますが、mourningとは悲嘆、喪、服喪期間を意味します

※How Long Will They Mourn Meなんて曲もありますね

 

Mourning Bandには、Weeper(ウィーパー)との別称もあり、これは「泣く人」を意味し、また、Crape(クレープ)とも呼ばれ、これは喪章が黒のクレープ地(黒紗)でつくられていることから、そのように呼ばれています

 

喪章は、本来、喪に服していることの証明であり、故人の親族、それも四親等までの近親者に限って用いるのが原則です

 

男性は喪服上着の左腕上部に幅10センチほどのMourning Bandをつけ、女性は胸に黒いリボンを垂らすのが正しい用い方です

 

モーニングコートやブラックスーツなどのちゃんとした喪服を着ていれば、必ずしも喪章をつける必要はなく、つまり、服装でちゃんと弔意を示しているので、さらに喪章をつけると意味がだぶるということにもなりかねないと言う方もいらっしゃいます

 

ただ日本的な習慣として、平服で参列するときに弔意をあらわす意味で喪章を用いたり、社葬などの大きな葬儀で関係者と一般の会葬者を区別する意味で、関係者が喪章をつけたりする例はありますので、原則は原則として、そのへんは臨機応変に対処すればよいと思います

 

この近親者以外の人が喪章を用いるのは間違いなのですが、このへんの間違いがどこから生まれたかというと、1897年(明治30年)1月、孝明天皇の英照皇太后崩御のおり、日本ではじめて喪章をつけることが行われ、ここから日本独特の風習となって今日に至っているのではないかと私は考えています

 

 

さて、せっかくですので、弔辞の際のモーニングの着用についても簡単に書いてみたいと思います

 

原則は、黒の共地のベスト(白べりがある場合ははずす)に地味な細縞のコールズボンの組み合わせとなります

祝儀には、グレーのベストに派手目なコールズボンを合わせることで、祝儀と不祝儀の区別をはっきりとつけます

 

ここで、気になるのが、英国の映画などで弔辞の際にスラックスも共地の黒色のモーニングコート姿をたまに見かけることがあります

 

これは、黒のズボンを合わせるというのはカトリック教徒の習慣で、カトリックの多い欧米では黒ズボンが目立ち、したがって映画などではモーニングの上下が葬儀シーンで見られると言われています

 

 

以上、トリビアも交えつつ、喪章について書いてみました

 

 

静岡県のテーラー新屋は、モーニングコートもお仕立ていたします

 

 

 


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