TOP > コラム > コラム

blog

【コラム】の記事一覧

ポール・スミス

 静岡県のテーラー新屋のダイスケです

先日、ポール・スミスの時計を分解した写真の展覧会が表参道で開かれていると言うニュースを見つけました


そこで、今回はポール・スミスのデザイナーズ・ブランド立ち上げまでを書いてみたいと思います

 

ポールスミスは1946年にロンドンから列車で2時間ほどの距離にある、ノッティンガムに生まれ、ここで弟1人妹1人の三人兄弟で育ちました

彼は11歳になって自転車競技に熱中するようになるまで、少年時代の記憶はまったくないと回想しています

 

嫌で嫌でたまらなかった学校を15歳で卒業して、彼の父の友人が経営している衣料品卸売り業の会社に就職しました


15歳という幼い彼に割り当てられた仕事は、ディスプレイに関するものだったが、17歳になった時に彼に課せられた職種はメンズウェアとその関連商品仕入れでした


しかしスミス少年が熱中していたのは、じつはこの仕事はではなく、相変わらず自転車競技でした

自転車競技に技は事故はつきものですが、ある日大事故に遭い、愛用の自転車はぺしゃんこに潰れたが一命だけは奇跡的に助かり、彼は三ヶ月の入院生活を送らなければいけなくなりました

この病院生活で、人生には自転車よりも情熱を燃やせる対象があるという事実をしみじみと悟ったそうです

 

時は60年代の中期のことで、カーナビーストリートのモッズルックが英国国内だけでなく、世界のファッション界にも強烈な刺激を投げかけていた時代だったので、彼がこれからの人生をかける対象がファッション界となるのはごく自然なことだったようです

 

退院後、彼がはじめて手掛けた仕事ははネクタイををつくることでした

ちょうどノッティンガムで彼の友人の1人がブティックを開店しようとしていて、この友人とこの事業を共同で進めることになりました

 

しかし、なんと言っても若き日のポールスミスの運命を決定したのは、彼が21歳になったときにポーリンに出会ったことです


後に彼はこう語っています

「彼女はすべてを飛躍的に、そしてトントン拍子に推し進めてくれた
彼女は既に2児の母であったので、私は結婚してすぐに、本当の父親であり家長となった
しかし、それ以上に私にとって重要だったのは、彼女がロンドン生まれでロイヤル・カレッジ・オブ・アーツで学んでいたことだった
わたしは偏狭な田舎者だったけれど、彼女はそうではなかったのである」

 

妻ポーリンの積極的な勧めと貯金が600ポンドあったので、ポール・スミスは彼自身のブティックを開店することを決心しました

しかし、自身のブティックといっても4メートル四方の小さな小さな店で、しかも開店日は金曜日と土曜日の週に2日だけで、残りの日は金を稼ぐ為に外で働かなければならなかった


その当時の事を彼は

「私は金と同時に知識もなかったのだ
この時代に私自身を最高に慰めてくれたものは私自身の満足感だった
私を容易に満足感させるものはなかなかなかったけれど…」

 

それからさまざまな製造業や小売業者の製造とスタイリングのコンサルティングを連続するが、資金がないので僅かな手数料を稼ぐだけというような生活が続きました

こうしたときに、彼の名前と仕事を決定的に英国国内だけでなく世界的に記憶させたのはブラウン・オブ・ロンドンでのデザイン活動でした

 

ここでの三年間の仕事を背景にして、彼は自身の製造業の仕事をはじめましたが、ポーリンがすべての商品のカットをし、スミスが販売を担当する
というようなかたちで小さな小さな製造業者の仕事がはじまりました


小さな部屋のベッドの脇に、米国のバーニーズ、日本のバイヤーが商品を見てくれたことをよく覚えている
このときぐらい明かりがまぶしかったことはいままで経験したことがない

と語っています


しかし、’76年から’77年の2年間で売れたのはわずかに400着のシャツだけだったといいます

 

ロンドンのコベントガーデンに最初のショールームを開設したのは1977年のことでした

ようやく独立したデザイナーの基礎が確立したからです


ファッションの仕事に生きがいを見つけて以来、もう15年近くが経過していたけれど、70年代後半期のデザイナーズ・ブランド物の人気上昇が世界的にみられる幸運も幸いして、瞬く間にポール・スミスの名前はビッグネームとなりました

 

’79年にはコベントガーデンに自身のブティックを開店し、’82年にはもう一つをロンドンのブティックとしてアベリー・ローに開店しています

 

以来、現在では欧州各地をはじめとして日本や米国でもそのデザインがごく身近にみられるようになっていきます

ポール・スミスの、英国調の最も現代的なデザインがはじまりです

 

静岡県のテーラー新屋はポール・スミスのことも応援しています

 

 


モーニングコートとボタン数

静岡県のテーラー新屋のダイスケです


先日、歌手の桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章しているところをテレビで見ました


普段、Tシャツ&ジーンズの印象がある桑田佳祐さんのモーニング姿を見ることが出来て新鮮でした

 

さて、そんなモーニングコート
リニューアル前のブログでも触れたことがありますが、今回はボタンの数にフォーカスをおいて書いてみたいと思います

 

現在のモーニングコートは1つボタンですが、今から半世紀程前には2つボタンであったり、19世紀の末には3つボタンや4つボタンのモーニングコートも一般に用いられていたそうです


そして、1個の場合は往々にしてリンク(拝みボタン)にかけるが、2個や3個の場合は普通にボタン掛けしていたそうです


それでは、4つボタンの場合はというと、上の2つをかけて下の2つは遊ばせていましたが、それはちょうど、6つボタン5つ掛けのベストのように裁断上で、掛ける用と掛けられない用のボタンがついていました

 

なお、モーニングコートのラペルは、4つボタン時代から2つボタン時代までノッチだったが、1つボタンになってはじめてピークが表れ(注=最初は1つボタンでもノッチド•ラペルが多かった)、今ではノッチのモーニングなど見たくても容易に見ることが出来なくなってしまいました


※2つボタンのモーングコートは、東京の金洋服店の服部先生のホームページで拝見したことがあります
http://kinn-tailor.com
(Custom-madeのページのモーニングコートの写真をクリックすると見れます)

 

次の関係はあくまで「概して」に過ぎませんが、フロントボタンと袖ボタンの個数を見ると、4個(前)に対し1個(袖)、3個に対し2個、2個に対し3個、1個に対し4個とどれも合計すると5個になるなんて話も聞いたことがあります

 

今回はモーニングコートの表面的な変化などを書いてみました
モーニングコートをインスパイアしようとしたデザインを考えているデザイナーさんなどには、参考になるのではないかと…

 

静岡県のテーラー新屋はモーニングコートもお仕立ていたします


一点豪華主義!?

静岡県のテーラー新屋のダイスケです


リニューアル後、第一回目は『豪華一点主義』について書きたいと思います


私たち日本人は豪華一点主義が好きですよね


ネットの世界だけでなく雑誌でも「腕時計だけはいいものを」とか「靴だけはこだわる」など当たり前のように言われています

 

様々な理由があると思いますが、その理由の一つとして、”ホテルでそれらは着目されるから”というものがあります

 

たしかに欧米のホテルやレストランなどで、お客様をランクづける方法の一つとして、係りの人が預かる帽子やコート、フロントでチェックインする際の腕時計に注意して見ることがあるそうです


ただし、それには大前提があって、例えば時計が一流品であれば、その他が靴にいたるまで二流や三流のはずはないという考え方があるということです


逆に一点だけ一流品だと、「なんで靴は良いのに…」なんて不思議がられたり、野暮ったいなどと思われてしまう可能性が大きいです

 

もちろん、その他の理由で、例えば、「時計は資産価値になるから」とか「足は第二の心臓と呼ばれてるから健康の為にフルオーダーにしよう」なんて考えがあって身につけても良いと思います

 

私個人的には、「ライターだけ」とか「靴だけ」一流品で他を安い三流品で揃えるぐらいなら、すべて二流品で統一した人のほうが上品な印象を持ちますし、ふりまわされてない印象があります

 

また、豪華一点主義と似た日本人独特の文化に「見えない所に拘る」というものがあります


見えない所に”も”なら良いのですが…


推測だと、江戸時代の贅沢禁止令が出された時に、着物は質素だけれど裏地はお金をかけるのが「粋」だとされてた時代の名残りなのではないかと思います

 

案外当たり前と思っている感性が、日本人独特のこともあります

間違えてはいませんが、気にしながら着こなしなどを楽しみたいものです

 

テーラー新屋は、”西洋から来た服”は、なるべく全体のバランスのとれた格好を提案し、おすすめしたいなと思います


PAGE TOP